東日本大震災から10年 ~当時の個人的記録~

この文章は2021年3月10日に書いています。明日で東日本大震災からちょうど10年が経ちます。2011年3月は私は福島市に住んでいました。当時のことはいろいろな感情を持って、いろいろなことと思い出します。たくさんの辛いこともありましたが、それに負けないくらいのたくさんの良い思い出もあります。震災から数か月は少し落ち込んでいたこともあり、写真などの記録をほとんど撮っていません。頭の中の記憶も年々薄れていきます。10年を区切りに可能な限り思い出して記録してみようと思いました。

2011年3月11日の当日

2011年3月11日(金曜日)は朝から車で約100km離れた喜多方市に出張に行きました。

午後2時46分に地震発生です。そのちょうど1週間前に少しだけ記憶に残る地震があり、また地震かと思いました。でも今度はなかなか止まりません。周囲の人と「長いですね」と2回ほど声を掛け合いました。約3分間の揺れの後、関係者の方が建物を見て回りました。築30年の建物の壁にヒビが入ったと騒いでいました。

その後、次々といろいろなニュースが入ります。まずは、新幹線が動かない、高速道路が通れない、というニュースです。新幹線も高速道路も使えないとなると、福島市に戻るには「峠越え」に近い山道を使って帰る道が近いです。その日の夜に仙台で会議があった私は誰かに「会議に間に合わないかもしれない」と連絡しないと、と思いました。

喜多方市に宿泊

夕方17時前、喜多方を出発して仙台に向かおうとしたときに天気予報ニュースを見ました。山は吹雪いています。地元の人にアドバイスを求めると「峠越え」は危険とのこと・・・。諦めてその日は喜多方市に宿泊することにしました。同僚に会議欠席の連絡を入れようとしますが、電話が繋がりません。「状況から来れないと判断してくれるだろう」と勝手に推測し、電話連絡を諦めました。

ホテルにつくと、エレベーターが使えませんが、部屋は2階なので問題ありません。荷物を置いて、近くの定食屋さんで夕食と生ビールを1杯いただきます。ホテルに戻ると、やはり携帯電話は不通のままです。ホテルの公衆電話から自宅に電話してみます。10回ほどかけるとようやく奥さんにつながりました。私が自宅に設置したスピーカーが落ちてきて、危なかったと少し文句を言われましたが、無事を聞いて安心します。

テレビでは津波のニュースが流れています。海岸線は大変なことになったとこの時初めて気づきました。そのニュースをみて、仙台の会議は中止になったと確信しました。

3月12日(土曜日)喜多方市~福島市の峠道

3月12日の朝、晴れました。雪の残る峠道を使って福島市に戻ります。道が所々くぼんでいたりと変形しており、地震の大きさを実感しました。福島市に近づくと車の渋滞があります。なんだろうと思って先頭部分を見るとガソリンの給油に並んでいる列でした。メーターを見て、半分以上入っていることを確認して安心します。

自宅に着くと「上司の〇さんから、電話があったよ」と奥さんに言われました。あれ、昨日の会議出れなかったことの問い合わせ?会議あったのか?と疑問に思いましたが、続けて「連絡がとれず、心配してたみたい」とのことでした。直接電話しようかと思いましたが、職場が心配になり土曜日でしたが職場に行くことを決意します。

洗濯物を洗濯機に入れると奥さんより「風呂入ったの?」となぜか驚かれました。「風呂じゃなくてシャワー」と答えると、「そうじゃなくて、ここは水でないよ」と説明されました。そうです、この日から3週間にわたり自宅は水がでない状況が続きました。

職場に到着すると

私の机と椅子に本棚が倒れ、ガラスが割れていました。本棚はもろに椅子に直撃した様子で、椅子は大破していました。ここに座っていたら、死んでいたのかもしれないと思いました。

少しだけお片付けをしていると同僚が皆テレビに釘付けです。ニュースは津波ではなく、福島第一原発の状況を映していました。そしてその日の午後に爆発が起こりました。

皆がとんでもないことが起きたことはわかっていながらも、現実味がない状態でした。夕方になり、状況が良く分からないままぽつぽつと同僚が自宅に帰りました。私も新たな進展がないまま自宅に帰宅し、テレビで状況を見守りました。

3月13日(日曜日)

翌朝は、崩壊した職場の片付けもあり、午前のうちに再度出勤しました。午後には会議があり、福島県と宮城県の県境付近の放射線濃度が上昇中とのデーターが示されました。同僚皆の表情に不安がともります。

その日の夜奥さんと家族会議をします。とりあえず数日になるか数週間になるかはわかりませんが、奥さんと子供4人は神奈川県の私の実家に避難することになりました。

3月14日(月曜日)

3月14日朝、車で4人の子供を連れて奥さんがハンドルを握り、神奈川に向かいます。ここからは後から聞いた話ですが、須賀川の福島空港で福島~羽田の臨時便に乗ろうとするもチケットが取れず、そこから5人でタクシーに乗ったそうです。東京に着いたら、電車の駅でおろしてもらい神奈川に向かったそうです。その日の夜には私の実家に到着したとの連絡を受け、安心しました。

状況悪化

その後は少しずつ状況は悪化し、奥さんと子供たちは奥さんの実家がある宮崎県に更に避難しました。長期化することが予測された時点で、4人の子供たちはそれぞれが宮崎県の学校に転校しました。

職場では震災後からの数週間は過酷な日々が続きました。家族を避難させるために数名の同僚が一時福島を離れました。また、原発のある浜通り(相馬~いわき市)からの仕事は福島市などにのしかかるために、通常の1.5倍の人員が必要でした。でも皆でアドレナリンが大量分泌されたためか少々の苦痛のみで乗り越えました。

2011年5月以降

2011年5月に入ると状況はそれなりに落ち着き、農家などの生産者の方は風評被害を含めた過酷な状況との闘いが続きますが、普通のサラリーマンにはなんとなく通常状態に近い状態になりました。

6月になり、放射線量が簡単には下がらないことを実感しました。また4人の子供たちがそれぞれの新しい学校に馴染んでいる状況を知るにつれ、自分が宮崎に異動することを決意します。

職場の上司に相談すると、状況を理解していただき快く同意していただきました。2012年4月に宮崎県に移住しました。

半田山自然公園

感謝の気持ち

震災直後に大変な中で一緒に頑張っていただいた職場の同僚の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。また、職場の上司、宮崎で私を受け入れてくれた新しい職場の方々にも感謝します。

震災の直後から、人生における重要ないろいろなことを次々と決断しました。一年は福島に残りましたが、結果として福島の同僚・後輩たちを見捨ててしまったような形になりました。私が異動することを知ったときの後輩たちの複雑な表情が今でも忘れられません。「これで良かったのか?」「こうするしかなかったのか?」「本当にこれが一番の選択だったのか?」と10年間自分に問い続けました。でも、自問自答のように自分の中からは答えはでてきません。

明日で、震災から10年が経ちます。自分の中に大きな区切りをつけたいと思います。自分が信じた道をこれからも歩みたいと思います。